新宿育ちというサバイバル
同窓会に行ってきた。 小学校と中学校続けてふたつ。小学校は四ツ谷第四小学校、 今はおもちゃ博物館になっているあの小学校。 中学校は四ツ谷第一中学校、四ツ谷駅の真ん前にあり、隣は学習院初等科、迎賓館がはす向かいにある。 私は毎朝、舟町の家を出るとまず隣のかるた名人の娘に声をかけ、次に杉大門通りの居酒屋の二階の子も誘い、建具屋の孫娘に声をかけ、最後に雀荘の子に声をかけて一緒に学校に行く。 因みに我が家はレストランと石屋であった。 通学路である新宿通りに乱立する看板の中で、一人が目に付いた看板を指名し、それを通り過ぎる前に他の人が当てるという「看板当てゲーム」をしながら歩いていると、あっという間に学校に着いた。 大きな看板なのに誰も見つけられなかった時はかなり盛り上がった。 バレー部の朝練に向かう途中、水道管が破裂して新宿通りが川のようになったことがある。 朝練で学校に来ていた呑気でアホな中学生は、川だ、川だ¡とビショ濡れになって遊び、事の重大さに気がついたのは数年経ってからだった気がする。 学校には色々な環境に生きている生徒がいた。 レストラン、飲み屋の子は数知れず、枕屋の長男坊、お風呂屋さん、魚屋さん、美容院、クリーニング屋、金物屋、大きなスーパーの子、俳優さんの息子、声優さんの娘、お寺の長男、お岩稲荷の次男、明治記念館から通っている子もいた。裏手には大蔵省官僚の寮があったので、お父さんは大蔵省なんて子も数人いた。 入学当時は古い木造校舎が丁度壊され、ピカピカの新校舎、でも校庭はしばらく使えなかったので、体育祭など広いグランドが必要な時は、国立競技場のサブトラックを借りて行われていた。 マラソン大会は迎賓館一周。エンジ色のパチパチのブルマーに大きな名前を前後に付けた体操着を着て、青山、赤坂を通り抜ける。流石にこの格好は恥ずかしいよと、当時も同級生と文句を言い合っていた。 ツッパリ全盛期。剃り込み入れたリーゼントの強面、スカートの長い不良もいれば、モデルの子はスカートを短くしたりもしていた。 気があう子も合わない子も毎日顔を合わせて長い時間を共に過ごす。 ある意味中学校はサバイバル。 いつの時代も多感な子供にとって、厳しい3年間である事は間違いない。 三十五年ぶりの再会。不登校だった子も同窓会には来ていた。 みんな大人になっていた。小さかった男の子たちはすっかり大きくなって、立派なオジさんになっていた。女の子たちはお化粧していて、綺麗になっていた。 誰かの息子や娘だった子たちは自分の職業を持ち、懐かしい話や、何を今やっているか、という話で盛り上がる。 俺ダンサー、私、警察官、俺ムショ帰り、あいつはまだ刑務所だなんて話もでる。政治家、同時通訳者、金融庁、主婦、証券アナリスト、詩人、ゴルファー、ガラス作家。 この三十五年それぞれ懸命に生きてきたはず。幼い頃新宿の公立中学校で共に過ごした人々は、ある意味サバイバルを生き抜いた仲間のような存在だ。 たとえ今何をやっていようとも、そうかそうか、よかったよかった。 とりあえず生きていてよかった。という気持ちになる。